捨て牌読みの巧拙

2014/1/19 up

 20〜30年前の麻雀書籍をお持ちの方ならお分かりだと思いますが、昔は捨て牌読みなる戦術が流行していました。相手の捨て牌を読んで「ああでもない、こうでもない」と解説をするのが好きなプロが多数存在したのです。もちろん捨て牌読みがうまくいくこともあります。私も友人との2人麻雀(原田麻雀ルール)で、純チャンのカン待ちを一発で看破したこともあります…が、強い確信を持って一点読みできることなど千回に1回もないでしょう。

 それにしても、捨て牌読みの書籍に関しては、執筆するプロによってレベルに大差があるということも痛感せざるを得ないところです。「同じプロでも、こうも違うのか」と感じます。ここでは4人のプロの書籍から一例ずつ紹介したいと思います。

田村光昭プロの例

(東家の捨て牌)   (リーチ)
(南家の捨て牌)     .
(北家の捨て牌)     .
※北家はポン、を678でチーして2フーローしています。

(西家の手牌)   ドラ

 <田村氏の著述>  開局早々の親リーチである(中略)。リーチ者の捨て牌からに注目しよう。の切りは間にがあるからだ。待ちはが一つ考えられる。ドラがということから三四五の三色が気になる。当然ピンズの待ちも考えられるわけだが、ドラそばのリーチはないだろう。となるとマンズのが考えられるが、そうなると切りは何だろうか? マンズのメンツは完成していると考えるべきではないだろうか。三巡目にが切れているのでからの切りにが入って切りが考えられるが、三色とのからみから雀頭はない。となるとがロン牌だろう(田村光昭「クイズ麻雀」より)。

 <解説> 田村氏はこの捨て牌だけを見て待ちがロン牌であると一点読みをしておられます。もし本当にそんなことが可能なら漫画のアカギ君にも勝てるかもしれませんが、残念ながら強引な推理とこじつけにすぎません。プロの解説としては、100点満点でいえば10点がいいところでしょう。居残り補習を受けなくてはいけないレベルです。
 東家のリーチに3〜5の数牌が1枚も切れていませんから、345の三色は当然警戒しますが、三色と決まったわけではありません。当たり前の話です。にもかかわらず「三色だからの雀頭はない」などといい加減な推理をしています。「ドラそばのリーチはない」「マンズのメンツは完成している」というのも、全く根拠のないデタラメです。言うまでもなく、などからの切りもあり得るのです。他にも数えきれないほど多くのパターンがあります。ちなみにこの本ではツモ切りと手出しはまったくの不明。このような無意味な例題を見せられてどうしても解説しろと言われれば、私であれば次のようにするでしょう。
 「東家のリーチはピンフ模様だが、待ちは絞りきれない。南家は国士無双模様、北家はドラを対子以上で持っている可能性がある。食いタンまたは役牌ドラドラというのが本線か。西家は一応一通の2シャンテンとはいえ、カンがネックの上にを切りにくいのだから、まったく勝負にならない。北家はの後ヅケかもしれないのだから、西家としては完全にベタオリすべきである」
 そう、東家の待ち牌などそもそも読む必要がないのです。ちなみに東家の実際の待ちはで、高目345の三色でした。が、田村氏の解説は結果ありきの駄文に過ぎません。待ちが本命のひとつであることは、中級者以上なら誰でも分かるとは思いますが、一点読みすることは不可能です。一点読みなど、後述の金子プロのような特殊な例を除き、まず無理と考えましょう。

森山茂和プロの例

 こちらをご参照ください。

小島武夫プロの例

 <小島氏の著述>
図1 南場2局1本場。南家が7巡目でリーチ。ドラは。南家は6千点マイナス。私は北家で1万4千5百点プラスでトップ目である。南家の捨て牌は、(リーチ)  (のみツモ切り)
図2 

 図1の状況で南家がリーチをかけてきたときの私の手牌が図2で、えらいときにリーチをかけられたと思った。こんな切り方では、なにがアタリになるか、まったく見当がつかないからである。(中略)

 だが、読みの材料は少なくても、アタリ牌の見当はつけなければならない。南家の捨て牌をじっと見つめていると、は通りそうな気がした。リーチの2巡前にを切っているからだ。このは、といった形からの切りではない。とあって、ツモからの打ちである。複合メンツのなら、ヘキ頭からは切らないにしても、2、3巡目では切っている筈だ。(中略)

 上家からが出れば鳴くつもりでいたが、西家はを切ってきた。次巡をツモった。このテンパイでは、ツモらないとアガれない。しかしを切ってテンパイを崩すこともないので、を切ってリーチをかけた。南家と五分のツキならリーチはかけないが、今は私がリードしていると感じていた。(中略)ツイてない南家だ。振り込んでもたいしたことはない。いやその前にこちらのアガり牌を南家が振るだろうと思ったが、逆に9巡目をつかんで私が振り込んだ。しかし、案の定南家の手は2千点の手だった(図3)(「小島武夫の豪快麻雀」より)。

図3 

 <解説> 百歩譲って昔の本なら色々な言い訳も少しは成り立ちますが、これは2008年発売の本なので、小島氏は最近になっても上記のようなレベルの低い戦術論しかお持ちでないことがお分かりいただけると思います。この手牌は第3章「敵手看破術」という項目からの抜粋なのですが、全然看破できておらず、我々アマチュアが参考にすべき点はひとつも見当たりません。解説するのも馬鹿らしいですが、一応解説しましょう。

 「とあれば、2、3巡目にを切っているはず」というのは単なる思い込みであり、読みではありません。連盟雀士はわりとそういう先切りをするプロが多い傾向にありますが、当然手牌にもよりますので絶対ではありません。まして「は通りそうな気がした」とは、せいぜい自分の日記帳にでも書くようなレベルの内容で、とても敵手看破とは言えないでしょう。

 しまいには「南家はツキがないから、自分がアガれるはず」という意味不明な決めつけを行い、最後はリーチ棒つきの放銃。南家の手牌は、何千回見直してもリーチピンフドラ1の3,900点に見えますが、この本では2,000点になっています…。これのどこが敵手看破なのでしょうか。「勝手な決めつけは怪我のもと」と改題すべきでしょう。最初のほうに書いてある「こんな切り方では、なにがアタリになるか、まったく見当がつかない」だけが唯一の正解です。

金子正輝プロの例

(A図) 
 「この捨て牌じゃワンズは「打てないな」
 誰でもそう見える捨牌だが、一牌の手出してすべてが読み切れるときだってあるのだ。たとえばA図の捨牌は、南4局親のもの、ドラは。トップからラスまで2800点差という大接戦で迎えたオーラス。私の手牌は11巡目にB図になっていた。
(B図) 
 そこへ上家から出たをチーしてテンパイしたのだが、そこで打ったを下家の親もチー。どうやらテンパイ気配だ。さらに次巡、親が手の内からを切ってきた。それがA図の捨牌である。
 そこへ私が引かされたのが。もしこれで放銃したら間違いなくラスになる。しかし、私は自信を持ってツモ切った。さらに次巡のもノータイムでツモ切り。とうとう15巡目にをツモアガった。すると他の3人は、
「トップめがワンズをふたスジも通すか。普通はを落として回すだろう」
 と、驚いていたが、私は親の手牌がC 図だと読み切っていた。なぜA図の捨牌からそう読み切れるのかというと、12巡目の手出しがキーポイントになるのだ。チーの時点でテンパイ気配は明らかだから、手役はタンヤオではなく翻牌の暗刻。それもしか残っていない。
(C 図)   (チー)
 ここまではいいが問題は手出しの形。3巡目にを切っているからのテンパイからを引いての切りはない。オーラスでラスめの親がたとえ手役がらみだったとしても、をこんなに早くに決めないはずだからだ。
 だから12巡目のはドラと入れ替えたとしか考えられない。そうするとも通ることになる。なぜならの形はフリテンだから、残るはになるのだが、を早く打ち過ぎているからである。つまり、ワンズのは完成しているのだ。すると残るは順切りの部分しかない。
(D図) 
 親の手牌はD図からをチーしてテンパイ、次巡ドラを引いてと入れ替えたと読める。もし、手出しがなければ私もで回るしかないところだったのである(金子正輝「常勝の麻雀」より)。

総括

 皆様いかがでしたでしょうか。同じ捨て牌読みをさせてみても、こんなにもレベルに大差があるのです。百歩譲って、田村氏の本は一昔前の本なのでまぁ良しとしたとしても、小島氏や森山氏はあのような駄作を近年になっても自信を持って世に送り出しているのです。同じプロとして恥ずかしいと思わないのでしょうか。

 前述の金子プロのような素晴らしい例もあるので、捨て牌読みがまったく無意味とまでは言えませんが、読んでも無駄な場合はかなり多いのです。ベタオリまたは全ツッパする場合は読む必要がありませんし、そもそも読んでも待ち牌を絞り切れないことのほうが圧倒的に多いからです。そんなことをやる暇があるなら、山読みを習得したほうがはるかに有意義だと思います。機会があれば、山読みについても書いてみようと思います。

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